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二藤建人

私と世界を隔つもの


*この度の緊急事態宣言発出により、LEESAYAは4月26日(月)〜5月11日(火)の間、臨時休業とさせていただきます。
現在開催中の二藤建人「私と世界を隔つもの」は、5月12日(水)〜16日(日)に再開する予定です。(東京都の要請に応じて、予定が変動する可能性がございます。)
皆様にはご迷惑をおかけし誠に申し訳ありませんが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。


 二藤建人(にとう・けんと)は、1986年埼玉県に生まれ、武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業後、東京藝術大学大学院彫刻専攻を修了します。彫刻作品を起点としながら写真や映像、インスタレーションなど幅広い表現方法で作品制作に取り組んでいます。主な展覧会に「In a Grove」LEESAYA(2020)、「NEW VISION SAITAMA 5 迫り出す身体」埼玉県立近代美術館(2016)、「あいちトリエンナーレ2016」東岡崎駅ビル3F(2016)など。また、近年では舞台美術のディレクションや、自らもパフォーマンス公演に参加するなど、彫刻と身体表現の関係性を積極的に模索しています。

 二藤は身体と世界の激しい触れ合いによって、体感し、実感を繰り返してきました。なぜ今自分が地球に対して垂直に立っているのか、重力を可視化し(Standpoint, 2011年〜)、他者を理解するために全身を雑巾で包んで街を拭い(雑巾男、2011年〜)、また、安達太良山の山頂に命がけで埋まって掌のみを地表の晒すことで、物事の線引きを独自の角度から見つめ直し(山頂の谷底に触れる、2013年)、重力という視点から人類の永遠のテーマ“愛”の再解釈を試みます。(私の愛は私の重さである。— 森の家族—、2015年)

 作家の素朴すぎる疑問は、誰も立ち止まらないような“当たり前”を受け入れないことから始まります。その疑問を解決し実感するためには、信じられない程の労力を費やしますが、二藤はわかったフリや、おざなりにはしません。そもそも既存の科学や文明がすべて間違いだった(物事の成り立ちを都合よく解釈するための方法でしかない)としたら、私たちの常識は何をもって担保されるのでしょう。愚直で破茶滅茶な作家なりの実感ほど、説得力を有するものが他にあるのでしょうか。故に鑑賞者は二藤の作品にいつも驚かされ、否応無く反応してしまうのでしょう。

 今回の個展では触れることのできない時代にあえて、“接触”をキーワードに、他者、ひいては世界との曖昧な境界やズレについて思いを巡らせます。人と人が触れ合う時、それぞれが別のものに触れているはずが、同じものに触れ合っているという無自覚な錯覚。“当たり前”に横たわる私とあなたの境目を、新作群によって可視化することを目指します。
 LEESAYAでの初めての個展となります、二藤建人の「私と世界を隔つもの」を是非ともご高覧ください。

作家ステートメント

両の掌を合わせるとき、あなたは右手・左手という二つの物質に触れることになる。それにもかかわらず、まるでただ一つのものに触れているかのような感覚が起こるのではないだろうか。これは私にとって認知の誤謬(ごびゅう)をはっきりと自覚させられる触覚体験だ。世界と自分との接触の構造を考えるとき、いつも手を合わせては思考してきた。

この誤謬は何によって起こるのか。おそらくは「右手も左手も、等しく私自身である」という意識がバイアスとなり、両掌の形状の近似も手伝って、二つの物質への触覚を一つに統合してしまっているのだろう。
具体的には、掌を合わせる際、意識が生み出した「自分自身」という薄皮を、両手で挟み込むようにして触れているとするモデルが体感に近い。

この薄皮の性質を思えば、それが掌を合わせる際にのみ発現するものであるとは考えにくい。何かに触れるとき、同じように「これは卵である」と意識するからである。箱の中に入っている未知のものに触れる時ですら、知覚されるあらゆる情報が可能性と即座に紐付き、やはり私と対象との間に意識の皮膜を発生させるのだろう。

私の脳は何のために、このような在りもしないものを生み出してしまうのだろうか。

そもそも接触とはどのような出来事か。卵をつかむとき、私の掌の表面は卵の形になっているし、握手をするとき、互いの掌は相手の形をしている。このように接触によって、触れているもの同士はその形を共有する。これは異質なものの境界において常に起っていることでもある。
そうした表面の形状変化に象徴されるように、外部との接触が私にもたらす感動や哀傷といった心的変化も、世界への同調の産物である。殊更強い同調が起これば、自分を保つことが困難になることは想像に難くない。

掌を合わせる触覚体験が示したことは、私は世界に直接触れることができないという結論である。接触という出来事によって巻き起こることの性質を思えば、「意識の皮膜」は接触による世界への強い同調から、自我の独立性を保つために、つまり人が人であるために機能しているのかも知れない。

たがそうした無意識の自己防衛の一方で、世界とのより強い接触を絶えず渇望する私の欲動はなんであろうか。
仮に真の接触が果たされたその時、私が私でいられる保証などないというのに。

二藤建人

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私と世界を隔つもの