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毒山凡太朗

Reopening | SAKURA


 毒山凡太朗(どくやま・ぼんたろう)は 1984年福島県に生まれ、大学卒業後、ごく普通にサラリーマンとして働いていましたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故によって、故郷である福島の状況が一変したことをきっかけに、今まで自分自身が信じてきたことや、社会が正しいとしてきた価値観に対し、改めて見直す必要性に駆られ、作品制作を開始します。

 毒山の制作手法は主に、特定のコミュニティに介入し、インタビューを行う対話形式の映像作品となります。忘れ去られた過去の記憶や場所、現代社会において埋もれてしまった問題を、改めて掘り起こすように調査する独特の切り口は、鑑賞者にショックと発見を与えます。ここで特筆すべきはインタビュー対象であるコミュニティに見事に介入し、溶け込む類い稀な対話力でしょう。実際、本展も毒山のプレゼンテーションによって実現することとなりました。近年では「六本木クロッシング2019展:つないでみる(森美術館、東京)」や「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」など、国内の展覧会に多数出展するにとどまらず、海外の展覧会にも招聘されるなど、大変注目の作家です。

 みなさまの記憶にも新しい「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」で毒山は、映像3作品と、愛知のお土産品として有名なお菓子「ういろう」で作った桜木のインスタレーションを展開しました。満開の桜にも、散っていく桜にも風情を感じる日本人の情緒が一体どこに由来するものなのか。本展では愛知で語り尽くされなかった桜に焦点を当て、作品を通してより深く、表現の自由と、表現者としての文化的役割について考察を試みます。

作家ステートメント

 桜はこれまで、時代によって様々な扱われ方をされてきた。

 明治期には、欧米列強の侵略と日本の海外進出によって政治的に切迫する中で、和歌に詠まれたような「日本らしさ」や「日本の伝統」が強く意識され、桜の花びらが重なり咲く様を全体主義として見立てられ、ナショナル・アイデンティティの象徴とされた。

 また、昭和のはじめ戦中には、若き日本兵が故郷に住む家族や友人、恋人を守るために身を捧げ、潔く散っていったとされた。ひとはその姿を、ソメイヨシノ がぱっと咲きぱっと散る姿に重ねて、彼らの死の儚さを敬い憂いた。

 終戦直前、ある画家が日本陸軍の命を受け描いた一枚の戦争画が、軍に受け取りを拒否された。敗戦後、約23年が過ぎたある日、数多ある戦争画を書籍としてひとつに収録するという話が持ち上がり、完成後一度も公開されることがなかったその絵も含まれることとなった。作者は掲載にあたり、戦後の日本社会の価値観の変化にあわせ、作品の一部を黒く塗りつぶし改作したという。

 今は見ることのできない黒塗りの墨の下には、散る桜花が描かれているそうだ。

 戦後、日本で全国的に植えられたソメイヨシノ は、戦後復興・高度経済成長の象徴となった。今日では百円硬貨に刻まれており、震災復興のシンボルとして扱われたり、総理大臣主催の慰労会の名称にもされている。毎年春には花見客が各地で賑わい、一般にも広く愛されている。

 時代によって都合良く解釈がなされてきた「桜」。それを利用したのは一体誰なのか。

 私は、今まで以上に表現の自由について考えている。作品が他者に鑑賞され、自由に解釈されることは望ましい。だが、広く一般に、あるいは特定の誰かの利益のために作る作品とは。「公益性」を重視した先に失うものはあるのか。

 今回は、これまでに多種多様な解釈をされながら、この日本の世相を表してきた「桜」をテーマに、これからの「表現」と「自由」について考えたいと思う。

毒山凡太朗

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